今日は神様や宗教について書きます。
なんとなく思ってることを3つ書いてみます。
神様が必要な理由
金魚もメダカも、たくさん卵を産み、たくさん稚魚が産まれますが、最終的には飼育容器の大きさ(キャパ)に見合う個体数のお魚しか生き残りません。
おそらく、飼育環境ではない野生でも、やはり生息数のキャパはあり、それに見合った個体数しか生き残らないのだろうと思います。
生き物の掟です。
生き物の一種である人間にも生息数のキャパはあるはずですが、人間は生息域を拡大したりしながら、個体数を増やし続けています。
でも、生息域の拡大も永遠にできることではありません。
やはり人間の場合も、何かしらの力で、キャパに合った個体数に減らされるということが起きるのだろうと思います。
自分は以前、その「個体数を減らすこと」が神様の役割だと思っていましたが、今はちょっと考えが変わりました。
個体数が減らないよう知恵を絞り、強い個体も弱い個体も協力して過ごしてきた人間にとって、それでも個体数を減らされてしまった際の悲しみを、一手に受け止めてくれることこそが、神様の役割じゃないかと思っています。
排他的な宗教
最近親戚が亡くなり、通夜に参列してきました。
その親戚の家の宗教が、「排他的な宗派の仏教」でした。
排他的な宗派の仏教って2つだけですかね?、そのうちお坊さんが来るほうです。
排他的な宗派とはいえ、お通夜は特に変わったことはなく行われました。
そりゃそうですよね、参列者には異なる宗派の人もいるわけですから。
でも、お坊さんの話は違いました。他宗教の批判です。
そもそもお通夜でお坊さんが長々と話をするってのにも驚きましたが、なにもここでそんな話をしなくても・・・
自分は以前から「排他的な宗教」は苦手ですが、今回更にそう感じてしまいました。
キリスト教、イスラム教も排他的な宗教ですから、排他的ではない宗教のほうが珍しいのかもしれませんが。
自分のお葬儀はどうするの?
実は仏教もあまり好きではありません。
「なんであんなに金キラリンなんだろ?」って思っちゃうのです。
それでも、お通夜やお葬式で行われるいろいろなことは、やはり今まで何度も経験してきているせいか、お別れのために行うこととしてしっくりきます。
意味が解らないようなこともしますが、そういうのも含め、必要な儀式なんだろうと思いますし、これも人間が神様・仏様を必要とする理由の1つかと。
でも、自分のお葬式は神式でやってもらおうかと思っています。
それも自分が死ぬ間際に初めて「神式でやるべし」と言うのです。
このあたりじゃ神式の葬儀なんてまずありませんがから、みんな「神式なんてわからない!」ってなるじゃぁないですか。
「なんだよ親父、変なコト遺しやがって!」みたいに文句言いながら、バタバタの葬儀になっちゃうわけです。
そんなのが、自分らしくていいかなと思っておりまする。
最近のアレコレ(日本橋弁松)
メタボ検診も終わり、食べたいものがいっぱいありますが、筆頭は「日本橋弁松」のお弁当です。
少し前にも書きましたが、調べたりしてたらなおさら食べたくなりました。
そして「父親の誕生日祝いに帰省する際の、お土産にしよう」と思いつきます。
今週末です。やっと食べれる!
と思ったのですが、そこに奥さんが立ちはだかります。
「鰻のほうがいいんじゃないかしら?」とおっしゃる。
お前が食いたいだけだろう!! と思うのですが、考えてみれば弁松も自分が食べたいだけなので、たいして変わりません。
奥さん「もう夏よ、鰻でしょ!」と畳みかけてきます。
確かに季節的には鰻に分があるよなぁ・・・
でもここで諦めてはいかんと、「主役の親父の希望を聞いてみよう」と提案します。
実家に電話し「日本橋の老舗でさ、日本で一番古い仕出し弁当屋さんのお弁当でさ・・・」と説明するも、親父は無碍なく「そりゃ鰻でしょ!」とのお返事。
くー(涙)
ま、次の機会を待ちたいと思います。逃げるもんじゃぁないしね。