もみじの備忘録

人生終盤に入ったけど、北関東南縁でキラキラした日々を過ごしたい!

就活アレコレ 今の就活とバブル期の就活


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今日は「就職活動」について書きます。

弟ザルは理系の学校で大学院2年目ですが、最近内々定をいただけたようです。が、親から見るとおよそたいした就職活動してないように見えたんだけど・・・ というお話しです。

ラスカル!、邪魔しちゃだめだよ!!

 

 

内々定をいただいたらしい

先日弟ザルから、珍しくメールが届き、「これは、電車乗り過ごしたから迎えに来てメールかしら?」なんて思いながら開くと「内定もらえた」という報告でした。

あら、それは良かった。おめでとう。思ったよりも早かったなぁ・・・

ただし弟ザルよ、それは「内定」じゃなく「内々定」だと思うよ。

 

ところで、いつの間に?

最近何度かリモート面接してたのは知ってましたが、最終面接に出向いたって話は聞いてません。

持ってるスーツがストライプなので、最終面接用に無地のスーツ買って欲しいって言ってたけれど、それも買ってないし・・・

 

弟ザルに聞いてみると、最終面接もリモート面接だった模様。だからストライプのスーツでやっちゃったそうです。

今ってそんなもんなの?、最終面接くらい対面でやるんじゃないの?

2年前の兄ザルの就活でも、最終面接はリモート面接でしたが、当時はコロナ真っ最中だったからで、今なら対面でやるのかと思ってましたが・・・

 

まぁ、就職活動も、いろいろ変わっているのでしょう。

 

 

自分の就職活動

自分が就職したのは1990年。34年前です。

当時はバブル絶頂期の超売り手市場でしたから、就職活動は超楽勝で、早々に内々定もらい、内定解禁日には箱根のホテルに泊まりがけでカンヅメでした。

が、それでも就活では10社くらいは回りましたし、弟ザルよりはちゃんと就活してたような気がしますが、それは時代の差でしょうか。

 

自分の元々の就職の希望は、「地元企業(当時住んでた神奈川南部の企業)に就職したい」「営業職以外の職種につきたい」「土日は休みたい」でした。

「地元企業」となると選択肢は多くなく、百貨店、自動車等の販売会社、大手電機メーカーの子会社など、いろんな業種を回りました。

が、地元企業には将来性を感じることはできず、結局地元企業はあきらめます。

 

かわりに「転勤がない」を条件にすることにし、その条件に一致する「情報サービス業(今では「IT系企業」と呼ばれるような企業)」を中心に再度就活を行い、OB訪問させていただいた際に印象が良かった企業に就職することになりました。

 

当時のOB訪問と言ったら、企業側が学生を接待する「飲み」です。

自分も会社に入ってから、母校の学生を誘うリクルーターやりましたが、学生に木曽路でしゃぶしゃぶ食わせながら勧誘するわけです。

 

そして自分が訪問したOBは、飲んだ後に夜遅くの誰も居ない会社のオフィスに入れてくれて、自分が作ったソフトウェアを見せてくれたのです。

まだパソコンも普及してなかった時代でしたから、自分は初めて見た本物のコンピューター(hpのEWS)にただただ驚き、「スゲー!」「カッコイイ!」となりました。

イチコロです。

今ではセキュリティー的に完全アウトな行為ですが、当時はまだそんなことは気にしてない時代でした。

あぁ、懐かしや。

 

 

学部推薦貰うのが大変なんだよ!

ってな自分の就職活動のことを思い出しつつ、家に帰ってきた弟ザルに、「おめでとう」と言うとともに、「就活、楽勝だったんじゃないの?」と言ってみたら、弟ザルは「学部推薦貰うのが大変なんだよ!」と言ってました。

文系の父親(それも文学部の父親)は、そもそも「学部推薦ってなにさ?」状態ですが、理系だと多いらしいですね。

学校推薦、教授推薦とも呼ばれるようです。大学院卒だと、なおさら多いのかな?

 

その推薦を貰うのがどのくらい大変なのかは、自分には全く判りませんが、弟ザルが良く勉強してたのは確かですから、やはり大変だったのでしょう。

特に院に行ってからは、毎日遅くまで研究しているようで、帰りもいつもかなり遅い時間です。

自分とか兄ザルのような、文系の大学生活とは、ホント全く違う生活をしています。

 

それを思えば「楽勝だったんじゃないの?」は失言でした。

でも、よく勉強してたからこそ、就活自体は楽勝だったということだと思うので、間違いじゃないのですが・・・

 

近々に、内々定祝いをしようと現在計画中です。

でも本人は、研究のほうが大変なようで、内々定祝いどころではない模様。

このあたりも、自分とか兄ザルの時とは全く違う感じです。

 

 


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